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葛飾 応為(かつしか おうい)

葛飾 応為(かつしか おうい、生没年未詳)は、江戸時代後期の浮世絵師。葛飾北斎の三女。応為は号(画号)で、名は栄(えい)と言い、お栄(おえい、阿栄、應栄とも)、栄女(えいじょ)とも記された。
北斎には二人の息子と、三人の娘(一説に四人)がいた。三女だった応為は、堤等琳の門人・南沢等明に嫁したが、父譲りの画才と性格から等明の描いた絵の拙い所を指して笑ったため、離縁されてしまう。出戻った応為は、晩年の北斎と起居を共にし、作画を続け、北斎の制作助手も務めたとされている。応為は不美人で顎が出ていたため、北斎は「アゴ」と娘を呼んでいたという。なお、北斎の門人・露木為一による『北斎仮宅写生図』に、北斎と応為の肖像が描かれている(「北斎仮宅之図」 紙本墨画 国立国会図書館所蔵)。
初作は文化7年(1810年)を下らない時期と推定される『狂歌国尽』の挿絵と見られる。同じく北斎の娘と言われる画人・葛飾辰女は、手や髪の描き方が酷似し、応為の若い時の画号で、同一人物とする説が有力である。
特に美人画に優れ、北斎の肉筆美人画の代作をしたともいわれる。また、春画・枕絵の作者としても活動し、葛飾北斎作の春画においても、彩色を担当したとされる。北斎は「美人画にかけては応為には敵わない。彼女は妙々と描き、よく画法に適っている」と語ったと伝えられている。同時代人で北斎に私淑していた渓斎英泉も、自著『旡名翁随筆』(天保4年(1833年)刊)の「葛飾為一系図」で、「女子栄女、画を善す、父に従いて今専ら絵師となす、名手なり」と評している。
晩年は仏門に帰依し、安政2-3年(1855 - 1856年)頃、加賀前田家に扶持されて金沢にて没したともされる。また、北斎没後8年目に当たる安政4年(1857年)に家を出て以来消息不明になったとも伝えられ、家出した際の年齢は67であったという。一方で虚心は、『浮世絵師便覧』で慶応年間まで生きている可能性を示唆しており、これらを整合させると、生まれた年は寛政13年(1801年)年前後で、慶応年間に没したことになる。

応為の性格は、父の北斎に似る面が多く、やや慎みに欠いたという。男のような気質で任侠風を好み、また衣食の貧しさを苦にすることはなかった。絵の他にも、占いに凝ってみたり、茯苓を飲んで女仙人になることに憧れてみたり、小さな豆人形を作り売りだして小金を儲けるなどしたという。
北斎の弟子、露木為一の証言では、応為は北斎に似ていたが、ただ煙草と酒を嗜んだという。ある日北斎の描いていた絵の上に吸っていたキセルから煙草の火種を落としたことがあり、これを大変後悔して一旦禁煙したもの、しばらくしてまた元に戻ってしまったという。
また応為にも弟子がおり、たいてい商家や武家の娘で、いわば家庭教師として訪問して絵を教えていたようである。
露木が「先生に入門して長く画を書いているが、まだうまく描けない」と嘆いていると、応為が笑って「おやじなんて子供の時から80幾つになるまで毎日描いているけれど、この前なんか腕組みしたかと思うと、猫一匹すら描けねえと、涙ながして嘆いてるんだ。何事も自分が及ばないといやになる時が上達する時なんだ」と言い、そばで聞いていた北斎も「まったくその通り、まったくその通り」と賛同したという。
「応為」の画号は、北斎が娘を「オーイ、オーイ」と呼んだので、それをそのまま号としたとも、逆に北斎を「オーイ、オーイ親父ドノ」と大津絵節から取って呼んだからという説や、或いは北斎の号の一つ「為一」にあやかり、「為一に応ずる」の意を込めて「応為」と号したとする説もある。

 

作品


現存する作品は10点前後と非常に少ない。西洋画法への関心が強く、誇張した明暗法と細密描写に優れた肉筆画が残る。木版画も研究者に応為の作と認められているのは、弘化4年(1847年)刊行の絵本『絵入日用女重宝句』(高井蘭山作)と嘉永元年(1848年)刊行の『煎茶手引の種』(山本山主人作)所収の図のみである。「北斎作」とされる作品の中にも、実際は応為の作もしくは北斎との共作が相当数あると考えられる。特に北斎八十歳以降の落款をもつ肉筆画は、八十を過ぎた老人にしては彩色が若々しく、精緻に過ぎる作品がしばしば見られ、こうした作品を応為の代筆とする意見もある。
カナダの作家、キャサリン・ゴヴィエによる応為を主人公にした小説『北斎と応為』("The Ghost Brush")はこの説を踏襲する形で書かれている。また、北斎筆とされる春画「絵本ついの雛形」を、応為の筆とする説もある。

 

月下砧打美人図 (げっかきぬたうちびじんず)

満月に照らされ女性が砧を打つ場面。月夜に砧を打つ図は白居易の詩「聞夜砧」に由来し、夫を思いながら砧を打つ妻の情愛を象徴的に表す。なお、本図の落款部分は後人が一度削り取ろうとして途中でやめた痕跡があり、新たに北斎の落款を入れて売ろうと企図していたと想像される。

唐獅子図 (からじしず)

父である葛飾北斎との合作。中央の獅子が北斎、周りの花を応為が描いた。北斎が死ぬ5年前 (83歳) に完成したと言われている。

(wikipediaより引用を改編)